正しさや道理に人はうんざりする

情報化した現代では多くの人が発信することができ、「正しいと思われる情報」に曝露されています。
トレーニングの領域でも、論文紹介やエビデンスベースの情報発信者は多く見られています。
これと同時に、それらの情報に異を唱える人もまた多く存在しています。
それらのYoutubeのコメント欄など見ていただければ、討論会場になっているのを確認できるでしょう。
さて、これは「科学特化型」と銘打ったパーソナルジムのトレーナーからの、それに対する所感です。
正しさ・道理の押し付け
論分紹介チャンネルやエビデンスベース系の話は、一定の「正しさ」を主張します。
時には過去の方法や定説を否定しながら、文明を前進させるためにはそうしたことも必要でしょう。
これは道理です。
発信者もあくまでそれを紹介しているに過ぎません。
しかし受け手の感情は違います。
過去や定説の否定は、受け手がこれまで信じてきたもの、これから信じたかったものを否定することもあります。
新説がいかに妥当性高く正しいものと思われても、受け入れ難いということはあります。
また経験則による直感から、その新説が正しくないと感じることもあり、実際に後々旧説が正しかったなることもあるでしょう。
何が受け手の感情を刺激しているのかというと、正しさや通りの押し付けです。
そんなもの押し付けられては、うんざりするのも分かります。
ただ先に述べた通り発信者サイドはあくまで紹介しているだけで、その情報をどうするかは本来受け手に委ねられているはずです。
それを押し付けがましく感じてしまうのは、SNSの双方向性による負の部分と言えるかもしれません。
最適解≠最善
「正しいこと」が「良いこと」とは限りません。
Correct is not the best.です。
科学とは正しさを追求するものであり、感情や主観は研究結果を揺るがすノイズとして極力除去されることが求められています。
対して人間の営みというものは感情や主観に沿って動くものです。
ゆえに科学と人間を直列的にイコールで繋ごうとすると、どうしても先のような軋轢が生まれます。
科学知識を集結させていけば、トレーニングの最適解みたいなものは出力できるでしょう。
しかしそれが実行できるプログラムであるかは人間側に委ねられます。
その人個人にとっての最善でなければ意味がありません。
発見される新たな知見はありがたく享受しながらも、それをどう上手に利用していくか工夫していくリテラシーが受け手には必要なのです。
新知見に対してただ反論するのは、それを無視した一種の思考放棄と心得ておきましょう。